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住所、問合わせ先等は、惣河内神社「山紫陽花」をご覧ください。
先代宮司の社務所だった一畳庵
ところで松根東洋城ってどんな人?
明治11年(1878年)東京築地生まれ。宇和島伊達家代々の家老職松根家の子孫。判事の父の赴任先大洲に8年在住。大洲尋常高等小学校へ通った。当時の住まいは「大洲旧居」として今も残る。
明治25年卒業後、愛媛県尋常中学(現松山東高)に進学。4年の時に英語教師漱石に出会い生涯師と仰ぐことになる。東大から京大を経て宮内省に勤務。漱石に紹介され子規創刊「ホトトギス」に加わるが没後離脱。大正4年に創刊し現在も続く俳誌「渋柿」は、大正天皇から俳句とはと問われ「渋柿の如きものにて候らへど」と答えたことから名付けられた。その後、毎月欠かさず発行され、2014年に創刊100年を迎えた。宮内省退官後は全国を回り門下の指導にあたった。生涯独身。
昭和39年86才没。宇和島金剛山大隆寺に眠る。
当時の様子を先代宮司の長女にお聞きした
父である宮司は松根東洋城の門下。俳号は佐伯居星塔(さいききょせいとう)。
昭和25年東洋城72才の時、惣河内神社に避暑に来たまま居つき、宮司一家と一緒に暮らすようになる。
東洋城は社務所の一角、南西にある一畳半(写真奥)にカーテンをして居候を始めた。門下が来ると万年床の布団を半分にたたみ、そこへ座布団を敷き、すぐ前にある机に向かった。
机は当時のまま残されており、自画像のあたりに座った東洋城が机を挟んで門下生を指導する姿が目に浮かぶ。
「一畳庵の記」によると、「そこは一畳庵で正確に尺を入れたら、一畳半庵でなくてはならぬが」とある。無断越境の気安さから一畳庵と呼ぶようになったそうだ。
二度にわたり計15か月滞在し、昭和27年に帰京した。
当時大学生だった長女は、東洋城はハンサムすぎて近寄りがたかったと振り返る。
2014年9月に、NHK連続テレビ小説「花子とアン」のモデルとなった白蓮が東洋城に宛てた恋歌直筆色紙がみつかった。
「初夏や白百合の香に抱かれてぬるとおもひき若草の床」
東洋城は白蓮との結婚を考えたが、家柄もあり離婚歴のある白蓮との結婚は叶わなかった。
「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮」
東洋城は生涯独身を通した。
東洋城直筆の木板(宮司保管)
「春秋冬 冬を百日櫻かな」
百日櫻の根元にあった立札
「箒とって我みやつ古に落葉可難」
木版の裏に大祭前日(大晦日)の宮司の様子を詠んだ句と記している。
先代宮司 巨星塔の句
「一畳庵ひたきくるかと便りかな」
東洋城は障子に穴をあけて、庭にやってくるヒタキ(ジョウビタキ)の様子を見ていたそうだ。帰京後もヒタキの様子をたびたび尋ねていたそうだ。
東洋城を師と仰ぎ、尊敬してやまない巨星塔。師亡き後、送られてきた形見の髪と爪は前庭にある黛石の下に今も眠っている。
※一畳庵は句会や休憩に貸し出してもらえる(要申込み)
少年時代を過ごした大洲を訪ねた
東洋城は晩年に大洲を訪れた。
「寂しさや昔の家の古き春」
旧居に立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と詠んだ句。旧居は大洲市民会館駐車場からすぐ。建物は非公開。
「芋鍋能煮ゆるや秌の音志づか」
大洲の秋の風物詩、いもたき会場を眺められるように建っている。
大洲市中村